浪漫飛行論 | 東進ハイスクール 横浜校 大学受験の予備校・塾|神奈川県

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2024年 6月 20日 浪漫飛行論

部活に趣味に勉強に、青春を満身創痍しながら邁進する全学生たちへ。

こんにちは、白石人生です。

本日は「青春と勉学の両立」という題で私の筆がデジタル世界を駆け回るそうです。暇つぶし程度でお読みください。

※青春と勉学が同じ枠に入らないのか、と思ったそこの君は勘が鋭い。入ります。ですからその場合は、お米をおかずとしてお米を食べるが如く、勉学を青春として勉学と両立させるのです。何を言っているのでしょう。

 

さて、そのような題を任された訳ですが…。はてさて、些か愚題に過ぎませんか。

そんなもの「根性」が聞いて黙ってないですよ。我を呼べば万事解決ではないか!!とかなんとか。

しかしそれではつまらないですか。根性論なんて聞いてない、などと抜かす唐変木はどこにでも居ますからね。

あとで色々書くとして、ひとまずはそんなヘンテコな木を置いてしまいましょう。

 

私が逆根張りを放って語りたいのは、地に足付いた根性論ではなく、宙に広がる浪漫飛行論です。

「ゼロ・ポイント・フィールド」

この世に広がる量子空間の何処かに、この宇宙の、過去現在未来を含む全ての出来事が記録されているという説です。

これだけではなんともSFチックな、科学者達の浪漫がそのまんま飛行しているような論に聞こえますが、なぜこのように思い至ったのかを知れば実は荒唐無稽な話では無いのです。

まず押さえておきたいことは以下の4つです。

・「量子」とはこの世を構成する全ての最小単位である。

・量子とは「粒子」であると同時に「波」である。

・「波」とは「エネルギー」である。

・この世で「エネルギー」の総量は変わらない。

次に考えたいのが、「今」を構成している(例えば私たちを構成する物質などの)「量子」もとい「エネルギー」はどこからきてどこへいくのかということです。
エネルギーがたとえその性質や形を変えたとしても、総量をかえずに宇宙を漂っているというのであれば、それは元をたどれば宇宙が始まった「場」(現論で言えばビッグバンの地)に帰着して、過去から現在の時を経てその姿かたちを変化してきたように、現在から未来へも同じく移り変わってゆく。すなわち、その場にあった「エネルギー」から過去も現在も未来も、見ず知らずの惑星の命さえ構成されている…とは考えられないでしょうか。

ここまで語ればなんとなくわかる方も多いと思いますが、ですからその宇宙が始まった「場」には、この世のすべての情報(エネルギー)が詰まっていると(正確には、その場に在ったものからこの世のすべてが出来ている)専門家は言う訳です。なんともおもしろい。

といってもこれはあくまでも浪漫飛行論であり、ただの「説」ですから、正しいとも正しくないとも証明されていないのも事実です。これもまたおもしろい。

これは万人受けはしないだろうと思いつつ語りますが、解明されていない事柄というのはなんとも浪漫に溢れ、私たちの冒険心とでもいうのか、琴線に触れるものがあります。

 

そろそろ、ヘンテコな木もとい唐変木と向き合いましょう。
「青春も勉学も、その根性でどうにか両立させて見せろ」という根性論に怪訝している衆に向き合います。

…そんな朴念仁が実際に居るのかどうか、これもまた証明に難しい現時点での私の空想の産物ではありますが、それも居るであろうと受け入れるのが浪漫です。

彼らはきっと、その難儀な課題に対する画期的なアイデアなどを期待しているのでしょう。しかし、そんなもの私が知るわけが無い。強いて言うならば、現在の物理学から、早く動けば時間が増えたりするんじゃないでしょうか。なので走りながら勉強とか、車を運転してもらいながら勉強とかどうでしょう…。失礼、さすがに冗談です。約二年間宇宙船の速度で動き続けても、増える時間はたかだか0.04秒と言いますから、これはこれは非現実的で話になりません。結局、方法論に語るなら「部活動以外の時間を見つけて、その尽くを勉学に充てる」になってしまいます。至極具体的。ただ非画期的。

結論、このブログで皆様に提供できる解決策は「時間を見つけて勉強に費やす」しかないです。そしてそれを続ける事です。そのための秘密道具が「根性」です。

最近(主に私が)多用している気がしますが、こんな言葉があります。
「成功は人に依り、失敗は術に依る」

成功している人の成功論はその人限定ですが、失敗している人の失敗論は万人共通ということです。
こと、この話題においての成功論は多分にありますが、失敗論とは根本「やらない事」
そして、人は変えることができませんが、術は変えることができます。果たして求めるべきは「成功する道」か「失敗しない道」か。

 

やりましょう。続けましょう。根性の手を借りましょう。いくら忙しいからと言って、有名なことわざを実地に試すことはないですよ。猫の手じゃペンすら握れない。借りるなら根性の手です。

 

とはいえやはり根性…。今生においてそんな得体も知れない曖昧なものに頼ってしまってよいものか。
そう考える方もいるでしょう。しょうがないですね、ここからはここだけの話ですから内密に。

この世界には「クマバチ」(またはクマンバチ)と呼ばれる蜂がいます。皆様も聞いたことがあるでしょう、あの黒くぼってりしていて、ゆっくりと、しかし力強く飛ぶ蜂です。
といっても彼ら、実は航空力学では「飛べるはずが無かった」んです。体躯に対して羽の大きさがあまりに小さく、どうあがいても現代力学では飛ぶことが不可能だったそうです。

しかし彼らは飛んでいました。
我々人類を、あの有毒の針で脅かせるほど優雅に。(実はオスには針が無く、メスも基本穏やかなためほとんど人間を襲うこともないそうです)

そして当時専門家はこう言っていたそうです。「彼らは、自身が飛べないことを知らない」

結局、最近の研究で「小さい生物にとっては大気に粘り気がある」という発見から、彼らの浪漫飛翔論が白日の下に晒されたわけですが…。

人間の観点、尺度でしかないですが、彼らは一時期は「気持ちによって不可能を可能に」していたのです。…浪漫です。

 

少し散らかってしまいましたが、何が言いたいかといえば。
「根性」なんて呼ばれる、今は解明されていない心の作用だって、この浪漫という言葉に任せてしまえば、頼れてしまうはずということです。
この世は時に、理屈では片づけられない事が起こり得るということです。(未来では証明されているとしても、現在はその限りではない)

私個人としては、何もかも論理的に証明をしてしまうのは浪漫に欠けてしまうので(といっても証明しようとしなければそれもまた浪漫が生まれないのですが)とりあえずは「出来ないことを知らない」とかいう根性の浪漫飛行論もとい根性論でこの受験期を乗り切る事をおススメします。

 

再結論、根性の手を借りて空いた時間の尽くを勉学に費やし、他は青春を貪るべし。

 

明日は平井先生です。お題は明日のお楽しみです。では。