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2024年 3月 18日 人生、気を負いすぎると薄くなるらしい。
こんにちは。昨日家の近くでタヌキを見ました、白石人生です。
某VTuberに春を告げられた今日此頃、どこからともなく新生活の予感が漂ってくるような気がします。それは人によって「期待」に、はたまた「不安」に、果てには「後悔」に満ちていて…
もちろん、人生に大きく関わる時期ですから、その感情に人の数だけ種類があるのは当然です。
今回はそんな新生活目前の(旧)受験生に向けて「受験生の今後」を勢いとノリで「選択と結末」という気取ったテーマに塗り替えてお届けしますので、最後までお付き合いいただけたら幸いです。
※なげーです。
※元ネタが分からない部分があるかもしれません。
※途中、偉人の名前を敬称略で用います。ご了承ください。
※心身参っている方向けの内容です。希望や期待に満ちた方は是非、書を捨て街へ出ましょう。
選択は人生を決めるのか(サブタイトルも勢いとノリです)
異世界に転生する特典として、佐藤和真が女神アクアを選んでいなかったとしたら、果たしてカズマは魔王軍幹部を倒すことは出来たのでしょうか。
それ以前に、大人気ネットゲームの初回限定版を買う前三日間に和真が睡眠を取っていたとしたら、果たして和真は異世界に転生していたのでしょうか。
でないとしたら、あの作品はあんなにも人々に熱狂と感動を与えられたのでしょうか。
シェイクスピア曰く、「人生は、選択の連続である」
彼がハムレットにこう言わせたのは、人生が小さな選択の上で成り立っていることを知っていたからでしょう。
それは結末を知っていて初めて理解できることであり、シェイクスピアがハムレットの人生を全て知っていたからこその言葉です。いわばメタ発言。
裏を返して言えば、自身の人生の大半を知らないハムレットからはこんな言葉が出せるはずも無かったでしょう。
とは言ってみたものの、僕たちの人生、一つの選択がどんな結末を招くのかなんて僕たちだって体験してみなければ分かりませんから、そもそも僕たちですらこの言葉を出せるのかは甚だ疑問です。
いえ、配管工の兄弟が駆け回る某ビデオゲームのように、ステージを何回もやり直せるとしたら或いは…。
皆様は【運命論(宿命論)】という言葉をご存じでしょうか。
簡単に説明すると、世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められているという考え方のことです。
物語の登場人物を僕たち視点で見ると、この考え方は実に正しい。
誰がいつ物語を進めたところで、例えば、奇想天外な物語は山奥から始まるし、尻尾を持つ怪力の少年は少女と共に旅へ出るし、オレンジ色の7つの球はギャルのパンティを召喚するし…
とはいえそれは物語の中だけではなく、僕たちの人生も捉えようによってはそうなのかもしれません。
例えば、2008年に少女はボーカロイドに出会うし、2020年にメジャーデビューを果たすし、2023年には東本願寺の能舞台で『昌』を歌うし…
僕たちの選択による結末が、それを体験してからでないと認識出来ず、認識した時には既に変えられないものであることを考えると、理性的に運命論は間違いではない気がしてきます。
僕たちは今を選択しているようで、実はその人生を振り返ってみると、歩んだ道はあらかじめ決まっていたのではないか、僕たちは意思をもって選択をした気持ちになっていただけなのではないかという事です。
そう聞くと、どんなに足掻いても人生は変わらないと言われているような気がして(捉え方によってそう言っているのですが)感情的には認めたくない…!!
…そして、僕たちもハムレットと同じく誰かの作品の登場人物なのではないかという考えが湧くのは、ここまでくると不思議ではありません。
(僕の物語の題は『この素晴らしい地球に祝福を!』がいいです。)
だとしたら登場人物たる僕たちが僕たちの選択について悩んだところで…
無駄ですね。
ハムレットがどんなに喜劇を望んだとしても、あの物語が悲劇であったように。
どうせ結末は作者が描いている訳ですから、であれば一般的な「正しさ」に縛られて窮屈な選択をするよりも、先を不安がって考えすぎるよりも、己に従って気楽に選択をした方が良い気がします。だってその方が生きやすい。
今の僕が友人に恵まれたのは、(詳細を語るのは面倒くさいので省きますが)過去に一般的には正しくない選択をしたからだと思っています。
ともすれば今度は皆様が
◇大学で「勉強以外に時間を費やしてしまう」からこそ一生涯の友人と出会えるかもしれない。
◇「勉強を妥協して」第一志望に落ちてしまうからこそ合格した大学で努力し、成功できるかもしれない。
◇「テキトーに生きてきて」浪人をしてしまうからこそ大学では学べない何かを身に着けられるかもしれない。
というように、一般的に「正しくない」選択から良い結末を迎えられるかもしれません。
…まぁ、運命論的にはそんなもの皆様の作者次第ですが。
冒頭の問い。
今思えば(運命論があながち間違いではないと感じた今ならば)、和真は何万回この物語を繰り返しても特典に女神アクアを選ぶし、ゲームを買いに行く前三日間は睡眠を取らないのでしょう。
それは即ち、魔王軍幹部は何万回も倒されるし、佐藤和真は何万回も異世界に転生するという事です。
そして何万回、あの物語は僕たちに熱狂と感動を与えてくれるという事です。
結末の解釈は誰が決めるのか(ですからあまり意味を考えすぎないよう)
かの有名な小説家である太宰治は生涯を通して幸せだったのでしょうか。
少し詳しい人ならば、彼の精神状態の不安定さを持ち上げて「不幸せ」と一蹴するでしょうか。それとも、ちがう人ならば、様々な能力において優秀な彼を「幸せ」と評すでしょうか。
「幸せは、いつも自分の心が決める」
僕の好きな詩人、相田みつをの言葉です。
彼は現在の名誉に反して、活動初期は長い間不遇な時期を過ごしたと聞きます。ですから、幸せとは自分の見方や考え方次第であるというこの言葉は大衆向けというより自分向けのものだったのかもしれません。
人間とは、物事の良し悪しを物事の本質より前に、自身の気持ちよりも前に、他と比較して相対的に評価する傾向にある生き物です。(そんな気がします)
もちろん、生存本能から考えると競争的な意味で合理的な考え方ではありますが、自己意思が重要な、例えば人生観にまでそれが浸食してしまうと些か生きにくくなってしまうのではないかと感じます。
選択による結末に自ら関与することが出来ないことは先に述べましたが、その結末を受け入れるのは他でもない僕たちであり、少なくとも僕たち目線、作者ではありません。(作品への自己投影に長けた太宰治という例外は除いて)
であれば好き勝手された結末を他者から「幸せ」だったり「不幸せ」と決めつけられるのは、我慢なりません。ましてや今の時代、全角140字で綴られて良いものでも子供の夢ランキング一位に語られて良いものでもないのです。
そしてそれを、自らが他と比較して「否」と判子を押す必要もないのです。
自分の物語ですから、自虐ではなく前向きな自解をしましょう。他者の批評に耳を傾けるも、物差しを使うのも何もかもくそくらえです。
冒頭の問い。
そんなもの本人にしか決められないので、僕らの考えなんて『グッド・バイ』
結局伝えたい事は、気楽に歩こう(考えすぎると、薄くなります)
皆さん、今を生きましょう。もちろん気楽に。
後先考えて縮こまるのも、過去の結末に悔やんでいるのも全部なしです。
これからするべき「選択」は自分の責任にはならないし、やってきてしまった「結末」はどうとでも肯定できます。(なにかものすごい語弊を感じる)
この世はこじつけ。理屈と膏薬はどこへでもつくものです。
明日のテーマ「選択科目の勉強法」
バナーとあとがき(薄くなってないよね?)
バナーってなんだよと思ったら、旗の意味らしいです。英弱には辛い。
それならフラッグって表した方が一般的じゃないかと思ったら、フラグとも言うじゃないか。これは失敬。